ウォーアイニー我愛你

ウォーアイニー我愛你

カナは自分の部屋のカーテンの向こうで、油絵の具で花を描いていた。刺繍の入ったカーテンを透かして差し込む光は、その糸の色を拾いながら柔らかく染まり、壁に立てかけたキャンバスの上で、きらきらと反射していた。

アリス 本名の短い呼び名 はスポーツが得意で、ときどき男子と殴り合いのケンカもする。二階の自分の部屋の窓からひと跳びで外に出て、玄関のひさしの屋根を滑るように走り抜け、そのまま通りに着地するのが大好きだった。

毎朝、アリスはカナを迎えにカナの家へ行っていた。玄関のチャイムを押すと、その電子音は、これから聞こえてくる大好きな声の前触れだというだけで、胸の奥をくすぐってくる。

「おはよう!」カナがそう言ってドアを開ける。

「お・は・よっ!」アリスも一音ずつ区切って、笑いながら挨拶を返す。

ふたりが高校へ向かう道すがら、カナは歩道のタイルを一枚おきに跳んで進む遊びをしていた。アリスはと言えば、通りすがりの人々の心臓をヒヤリとさせるようなアクロバットをやってみせた。

坂の中ほどで、ふたりは立ち止まる。一人はバレエのアラベスクのように身体をひねり、もう一人は野球のバッターボックスに立つ真似をする。

「私たち、かなり変だよね。」カナが言う。

「ほんっと変。ほら、ネクタイ、思いっきり曲がってるし。」

カナは友だちのネクタイを直し、アリスはカナのブレザーの襟を軽く引き下ろして形を整え、それから、弧を描くように跳ねた前髪の一本をつまみ上げる。まるで怒っている小さな眉毛みたいな、その癖っ毛を。

春になり、桜の花見がまるで雪ごっこをしたくてたまらないみたいに、花びらを空から降らせ始める季節になると、ふたりの少女はその花びらを両手いっぱいに集めては、互いに投げ合った。砂浜の砂糸のようなカナの髪には花弁がそっと絡みつき、ポニーテールに結んだアリスの髪には、空に描くしなやかなS字の軌跡とともに、花びらが軽く弾かれていった。

電車の中では、ふたりは窓ガラスを指先で軽く叩きながら、とりとめのない思いつきや、いつか叶えたい願いごとを語り合った。雨の日には、ガラスを伝う雫を指の腹でなぞって遊び、真面目そうな乗客たちの視線を気にしながらも、こっそりバレエのステップを競い合った。

高校に着けば、ふたりは一日中、ほとんど離れない。男子たちはもう、とっくにアリスの拳の味を覚えていた。

夜になると、カナは静まり返った自分の家の玄関先でアリスと別れる。その家の中には、水素原子の数より多いんじゃないかと思うほど、あらゆるところに花が飾られている。

そしてまた朝が来る。

抱きしめ合って、ぴょんと跳ねて、ネクタイはすぐに曲がり、電車の窓ガラスには小さな手のひらの音が並ぶ。桜の花びらは髪にひっかかり、カナのかすかな香水と、庭の椿の匂いが手をつなぐみたいに混ざり合う。

「今日、すごく可愛いじゃん。」

アリスはそう言いながら、カナのネクタイを直し、ブレザーの裾をぐいっと引いてまっすぐにしてやり、最後に前髪をつまんで軽くつねる。

「放課後ね、デートなんだ……。」

「はあ? デート?!」アリスの声は、岩にぶつかって砕ける波のように荒く立ち上がり、それから引き波のようにしぼんでいく。「誰と。」

「好きな人とだよ。前から言ってたでしょ。」

「……好きな人なんて、聞いてないし。誰。」

「中国語教室の人。」

「そっか……。」アリスは一度、足元を見つめる。「ついて行こうか。」

「はあ? 絶対ダメ!」

放課後、カナと別れたあとも、アリスは桜の花びらをまとったカナの髪のことを考えずにはいられなかった。誰かがその手を取って歩いていく光景が、ふいに頭の中に浮かび、そのたびに、薄いシャツ越しに胸の奥で心臓が暴れ出した。

街の中心にあるコーヒーショップで、カナはストロベリーと生クリームのアイスを注文し、背が高くて、スポーツ選手みたいな体つきで、目つきの自信に満ちた男の子は、ラム入りのチョコレートアイスを頼んだ。

「ほらね、ラム入りチョコなんて、絶対ヘンタイが好きそうな味じゃん……。」

アリスはガラス張りの窓にもたれかかりながら、ぶつぶつ文句を言い、隠れているカーテンの端をいらいらとねじった。

カナは背中のほうに、じっとりとした敵意の気配を感じる。振り向いた瞬間、アリスののぞき見していた目は、さっと視線をそらし、影に溶け込んだ。

ふたりの視線は店内を追いかけっこし、ときどき触れ合っては、カナに余計なジェスチャーをさせてしまう。「帰って!」と手で合図を送りながら、彼女は何度もアリスを追い払おうとした。

カナがあまりにも緊張して、膝でテーブルの脚を蹴ってしまうと、男の子は少し声を張って言った。

「ねえ、“好きだよ”って、中国語でなんて言うか知ってる?」

「えっ?」

「好きだよ。」

「ちょ、早くない?!」

カナはぱっと顔の前で手をあおぎ、口をぽかんと開けたまま固まる。そのしかめっ面は、隣のテーブルで母親の腕にしがみついていた子どもを、心底ぎょっとさせた。

「そういう意味じゃなくてさ。」

男の子は声を落として、あわてて言い直す。

「中国語で、“好きだよ”って言うときの言い方。」

「中国語で、何を。」

「“好きだよ”。」

「……。」

「中国語だと『我愛你(ウォーアイニー)』って言うんだ。」

そのとき、アリスは体勢を崩し、カーテンを思いきり引っ張ってしまった。バランスを失った彼女は、そのまま店員が運んでいたラズベリーアイスの大きなトレイめがけて、顔から突っ込んだ。

顔一面が、奇抜なキュビズムの絵画みたいに、ピンクと白のしみで埋め尽くされる。息を切らしながら彼女はカナに飛びつき、両手でカナの赤くなった頬を包み込む。その指先と、ふたりの唇には、ラズベリーアイスがべっとりとついた。

その光景にびくっとなって、男の子は自分のチョコレートアイスのグラスを取り落としてしまう。

ベタベタになった床の上で、ラズベリーアイスのトレイを両手に持ったまま、ぽかんと口を開けているウェイトレスが、思いきり足を滑らせた。トレイは、オリンピックの優勝セレモニーか何かみたいに、高々と宙に舞い上がる。

スマホで写真を撮る女の人がいて、その隣で男の子が手を叩いて笑い、カウンターの端では、年配の女性があきれたように鼻で笑っている。反対側では、アイス職人でもある店長が眉間に深いしわを刻み、怒りのこもった太い眉の下で、目を細い線のようにしていた。

「す、すみません! すみません!」

カナは胸の前で両手のひらを合わせ、今にも泣き出しそうな目で何度も頭を下げた。

「逃げるよ!」

アリスはカナの手をぐいっと引っ張る。カナはなすがままに振り回され、ふたりは信号機の灯りにまだら模様をつけられた灰色の通りを、息が尽きるまで走り抜けた。

公園の芝生の上に、ふたりはついに力尽きたみたいに仰向けに倒れ込む。

「で、いったいどうしたのよ、あれ。」

カナが息を整えながら言う。「何だったの、あの騒ぎ。」

アリスは答えを口にするまでのあいだ、風に揺れた花びらがひとひら、ゆっくりと地面に落ちるのを待つくらいの時間、黙っていた。

そして、小さな声で言った。

「ウォーアイニー。」

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