彼が運転するタクシーは、新しい部品でつぎはぎにされた車だ。そのせいか、自分の存在を断ち切ったあの致命的な事故の記憶も、次第に薄れてしまっていた。それでも彼は、顔のない人々を、荒れ果てた行き先へと運び続けている。
ハンドルを握る手は、かすかに震えていた。後部座席に乗り込んでくる影には、いつも冷たい気配がまとわりついている。
最後の走りを終えると、彼はタクシーを中央車庫へと入れる。金色のペニー硬貨を一握り、監督に渡し、それからバーで一杯ひっかける。
「今日はずいぶん沈んでるじゃないか」愛想の欠片もない声が言う。
「まあね」
そして彼は、終わることのない夜の中で、自分を待っているタクシーのことを思い浮かべながら、次の勤務の夢の中へと孤独を沈めていく。
ティルージェ
ひどい嵐の下を、一人の女が走っている。
怒りをはらんだ雲が、街の不機嫌な屋根の上でうねり、稲妻が闇を裂いては、幽霊を呼び寄せるような光を放つ。
電話ボックスの中で、彼女はどこかへ電話をかける。瞳の奥で、涙が弾ける。真っ白なドレスのままの姿が、凍えた歩道の上を駆け抜けていき、やがて一台のタクシーを見つける。
ロカン
歩道ぎりぎりまで乗り上げて停めると、車体がぐらりと揺れた。凍てついた、物寂しい路地に、ウェディングドレス姿の女が一人――暗い街の他の場所と同じように、そこもまた沈黙に閉ざされている。
その光景を目にして、彼の心臓は早鐘を打ち始める。
女はためらいがちに立ち尽くす。彼は窓を下ろした。
「…乗りますか?」怯えを含んだささやきが、夜気に溶ける。
ティルージェ は、悲しげな目で彼を見つめる。
「ええ、ええ……」
ロカン と ティルージェ
彼女は運転席にかかった運転手証をのぞき込む。
「ロカン っていうの?」問いかけが、深い霧のように窓ガラスを曇らせる。
「はい、それが俺の名前です」
「今日は、何をしていたの?」彼女の口元に、苦い笑みが浮かぶ。
「え、どういう意味ですか?」バックミラーの中で、ロカン はどぎまぎする。
ドレスと同じくらい、女の顔は青白い。
「わたしは……」こみ上げるしゃくり上げを押し殺しながら、「見てのとおりよ」と言って、ドレスの裾をそっとつまみ上げる。その仕草には、いちばん鋭い痛みだけを、どうにか隠そうとする必死さがにじんでいる。
車内には、再び静寂が落ちる。やがて彼女は、身を乗り出して運転席の方へと近づいた。
「あなたのことは?」一つひとつの言葉の音節が、疑念の海に浮かんでいるようにゆっくりと漂う。
ロカン は、胸の内で心臓が暴れ出すのを感じる。しばらくして、しぼり出すように声が出た。
「俺は、ただのタクシー運転手ですよ……あなたは?」
「わたしは」胸に手を当てて、視線を落としながら、「ティルージェ。オレゴンに住んでいるの。知ってる?」
「オレゴンの、緑の草原と澄んだ小川の国から、こんな汚れた街へ?」驚くほどなめらかに、その言葉が彼の口からこぼれ落ちる。「ずいぶん家から遠く離れてしまいましたね」
「家…」彼女はそう繰り返し、掌の影に、かすかな悲しい笑いを隠す。
「何か、おかしかったですか?」ロカン の視線が、落ち着きなくバックミラーへ跳ね返る。
「ううん……あなたがそう言ってくれたの、初めてだから」
「初めて? いや、よくわからない……」胸の鼓動は落ち着き、ハンドルを握る手の震えも収まっていく。「俺は、あなたのことを知っているんですか?」
モーターの低い唸りと、タイヤが路面をかみしめる音だけが混じり合う、静かな時間が流れる。
その沈黙のあと、二人はふっと笑った。
「もしかしたらね」彼女はそう答える。
ロカン が彼女を見るたびに、その瞳は微かに光を増していく。
そして二人は、三十年代の劇場のことや、Broadway と呼ばれる場所のことを語り始める。話はいつしか、ポートランドの郊外にある一軒家に移り、彼女の作るドリームキャッチャーや手仕事の工芸品の話題へと続いていく。
見慣れない笑みが、ロカン の顔に浮かぶ。街灯がチカチカと瞬き、ティルージェ の瞳が興奮にきらめき、エンジンがひときわ大きく唸り声を上げたかと思うと、タクシーの中が一瞬、暗く沈む。ロカン がふり返ると、後部座席は空っぽだった。
凍りついた心は、ただ外の景色をさまようように見つめることしかできない。
「おーい……?」彼は何度かそう呼びかける。
額の汗をぬぐい、みすぼらしい暖房スイッチを上げると、焦げたような匂いが鼻をつく。白黒写真のように色を失った細い路地を引き返し、タクシーを降りると、心をえぐるような風が、コートを突き抜けて体を冷やした。
ロカン
ガレージでは、彼は監督と言い争いになっていた。周りの作業員たちは笑い声を上、誰かの腕が、ウイスキーのボトルの前で、彼の肩にぞんざいに回される。
「一体、何が起きてるんだ……」彼は小さくつぶやく。
ティルージェ
彼女はもう一度電話をかける。汚れた大都市の闇の中で、雪のように白いドレスがぼんやりと輝いている。タクシーの姿を見つけた瞬間、また涙がこぼれた。
ロカン と ティルージェ
ドアの取っ手が、回るたびにきしんだ音を立てる。
「…乗りますか?」
「ええ、ごめんなさい……」
恐怖に満ちた感覚が、ロカン を包み込む。
客とちゃんと話をするのは、これが初めてだった。灰色の路地で、二人が笑みを交わし、彼女の目に涙がにじんだその瞬間――すべての灯りが一瞬で消え、気がつくと、後部座席はまた空っぽになっていた。
ロカン
「彼女は誰なんだ……?」グラスとウイスキーがぎっしり並んだカウンターの上で、その言葉だけが、何度も何度も頭を打つ。
夜ごとに、同じ問いが胸の中で繰り返される。
ロカン と ティルージェ
古びたタクシーで走りながら、二人の笑顔は、やがて共犯者同士のそれに変わっていく。激しい稲妻が、電話線の電柱に落ちる。衝撃で、車の後部が持ち上がる。落ちた瞬間、窓ガラスがはじけ飛び、その破片が彼女の顔を切り裂いた。ロカン はとっさに振り返り、彼女の手をつかむ。
「ジュリエット! 大丈夫か?」焦りが、その声を震わせる。
彼女の瞳が、大きく見開かれる。
「思い出したのね? わたしの名前、覚えててくれたのね!」
「君だったのか……君は、ジュリエット……」
二人は手を握り合い、じんわりとした温かさが、顔いっぱいに広がっていく。
「ロカン、もうすぐ来るわ。あの人が、わたしを迎えに来る……逃げなきゃ……お願い、ウイスキーは飲まないで……!」
ロカン
「何が起きている? ジュリエット って誰なんだ……?」
手の中には、ウイスキーのグラス。琥珀色の液面が揺らめくその奥に、ある顔が、少しずつ、遠くかすんでいく。
ロカン と ジュリエット
まだ減っていないグラスの底に、一台のタクシーが映り込む。白い息のような煙を後ろに残しながら走り去っていくタクシー。その向こう、事務所の窓の中では、監督の影がゆらりとうごめく。
ジュリエット はまた電話をかけ、荒れ狂う嵐の下を走り続ける。
急ブレーキの音とともに、ロカン のタクシーが彼女の横に止まる。彼女は、助手席のドアがきしむ音を振り払うようにして、飛び乗った。
「俺たち、結婚するはずだったんだ!」彼は涙声で叫ぶ。
「でも、あなたは事故に遭ったのよ……」
その抱擁は、凍りついた永遠の形をすべて打ち砕き、置き去りにされた世界の、荒れ果てた反射像を一瞬だけぬくもりで満たした。
「俺は……誰なんだ?」
「わからないの?」彼女はそっとささやく。
「今のあなたは、渡し守なのよ……」

